これだけは!歴史年号語呂合わせ 24選 第10回

こんにちは。講師亀崎です。

今回は、コレです。

 

1333年 鎌倉幕府滅亡

「悲惨(ひさん)さんざん」 鎌倉滅亡

 

出ました。

始まりが有名なのに、終わりの印象が薄いで有名な鎌倉幕府。

幕府の終焉はこの年だったんですね。

ただ、時代の転換点はどれも重要です。

今回は、鎌倉幕府滅亡の前後の流れを押さえましょう。

 

まず、鎌倉幕府が傾きかけたところから。

様々な要因はありますが、やはり「元寇」ですね。

モンゴル帝国の一部だった元が、二度にわたって日本に攻め来たアレです。

1274年と1281年ですね。

日本中の御家人が北部九州に集結し、全力でこれを退けました。

このとき、御家人たちは自分の家から北部九州まで全て自費で移動。

必用な武器も自費。食費も自費オール自腹でした。

当然、元寇の後に「オレ頑張った(奉公)んだから、ご褒美(御恩)をくれよ!」となります。

しかし、幕府として攻め込んだ元軍を追い返しただけで何も手に入れていません。

ご褒美(御恩)が無いのです。

これによって、多くの御家人の生活が苦しくなり、借金まみれに。

中には御家人をやめる武士も出てきました。

幕府の人気はどんどん落ちていきました。

 

そこで、幕府は「徳政令」を出しました。

そう。1297年の「永仁の徳政令」です。

日本史上、何度か徳政令が出されましたが、中学生だと「徳政令」といえばコレです。

御家人の借金をチャラにしたんですね。

御家人は喜びました・・・が、それもそのときだけ。

大損した金貸しは、御家人にもうお金を貸さなくなります。

御家人の生活がより苦しくなったのです。

御家人をやめる武士も増えました。

こうして、全国的に幕府へ怨みをつのらせる御家人が増加していきました。

 

次に、幕府滅亡について。

幕府の支持率低下に目をつけたのが後醍醐天皇です。

「これは政治の中心に(天皇・公家が)舞い戻るチャンス!」

ということで、後醍醐天皇は幕府に不満を持つ御家人・元御家人に声をかけ兵を集めます。

こうして1331年に「元弘(げんこう)の乱」が始まりました。

結果は後醍醐天皇側の勝利。

これにより鎌倉幕府は1333年に滅亡しました。

 

最後に、幕府の滅亡後の話です。

後醍醐天皇は日本の政治の権利を手に入れ、同年「建武の新政」を始めます。

ただ後醍醐天皇政策が、なかなかハマらず、不満をもつ武士も多くいました。

だいぶ「オレ様」政治だったようです。

気が付くと、全国の武士は「後醍醐天皇派」と「足利尊氏派」で真っ二つに分かれていました。

足利尊氏はもともと有力御家人で、元弘の乱の途中から後醍醐天皇側に付きました。

幕府滅亡には大きな手柄を上げましたが、建武の新政には不満がありました。

反・後醍醐天皇側では力が大きく、加えて源氏の家系だったので、尊氏はリーダーになりました。

こうして「建武の乱(延元(えんげん)の乱とも)」が起こり、足利尊氏側が勝利します。

建武の新政は1336年に終焉を迎え、室町幕府が誕生します。

また、新しく光明天皇を立てました。

これに不満の後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野(奈良県)へ行きました。

そこで後醍醐天皇は「本当の天皇はオレ様だ!」と宣言します。

つまり、京都(北)に光明天皇、奈良(南)に後醍醐天皇と、2人の天皇がいる状態です。

この状態の時代が「南北朝時代」です。

光明天皇、後醍醐天皇のあともそれぞれ数名天皇が引き継がれます。

最終的には、1392年に足利義満(室町幕府の第三代将軍)によって、南北朝は統一されます。

 

このように、鎌倉幕府の滅亡について、元寇~南北朝統一までの流れを把握しましょう。

元寇⇒(永仁の)徳政令⇒鎌倉幕府滅亡⇒建武の新政⇒南北朝時代⇒南北朝統一

この順番は必ず覚えてくださいね。

 

では、また。