これだけは!歴史年号語呂合わせ 24選 第9回
こんにちは。講師亀崎です。
今回は、コレです。
1221年 承久の乱
「人に不意」討ち 承久の乱
出ました。
中学生の歴史においてゴッチャになりやすい
「壬申の乱」「承久の乱」「応仁の乱」のひとつですね。
「大塩平八郎の乱」みたいに固有名詞を入れてくれれば分かりやすいのですが・・・。
今回は、承久の乱の流れについて押さえましょう。
承久の乱を理解するのに大切な視点は、
「乱の前後で、日本全国における鎌倉幕府の影響力がどう変化したか」
というものです。
当然といえば当然ですが、幕府はいきなり完璧な統治はできていません。
「守護・地頭置いたから」「オレ、今日から征夷大将軍だから」と言われても、ねえ。
遠くにいる、たとえば九州の武士なんで「じゃけん、なんなん?」てな感じです。
幕府の影響力は東日本において強かったものの、西日本ではそこまでではなかった、という状態。
そこに目をつけた後鳥羽上皇は、皇族・公家中心の政治を取り戻そうと倒幕を考えます。
上皇の呼びかけ反応したものも多くいましたが、結果的に鎌倉圧勝、上皇惨敗です。
鎌倉幕府 〇 - ✖ 後鳥羽上皇
幕府は承久の乱を逆手にとり、全国支配の強化を逆手に取りました。
つまり、幕府はこの乱をきっかけに全国統治を強固なものにしたのです。
そのために設置されたのが、六波羅探題です。
もともと京都守護が置かれていたのですが、それをバージョンアップした形です。
余談ですが、六波羅探題は北と南に分かれており、北のトップは出世コースだったそうです。
ちなみに、北方の初代トップは、北条泰時(のちの執権)です。
京都の六波羅(地名)におかれた六波羅探題の目的や主な仕事は以下の二つです。
・皇族や公家、西日本全体の監視
・西日本の裁判所機能
ちょっと話をそらしますが、承久の乱後に論功行賞(ろんこうこうしょう)が行われました。
論功行賞とは、戦で功績があった者にご褒美をあげることです。
まさに「御恩と奉公」です。
上皇方についた武士から土地を取り上げ、幕府方の功績者にその土地をあげのですね。
この「土地」が御恩=ご褒美です。
その結果・・・・・・イザコザが多発します。
裁判が激増したのですね。
その場で裁判官をした役人個人に任せるのが限界になります。
この状況を打破しようと動いたのが、時の第三代執権・北条泰時です。
(余談ですが、中学生が覚える執権は泰時と時宗だけでいいです)
そう、六波羅探題北方の初代トップですね。
泰時は1232年、裁判をスムーズに行うために御成敗式目を完成させました。
武家の法であり裁判の基準書ですね。
御成敗式目も超重要語句です。
日本の歴史において非常に重要である理由は以下の2点です。
・初めての、日本人の日本人による日本人のための法律
・戦国時代まで影響力大
日本歴史上、古い法律といえば「大宝律令」ですね。
これは、唐の律令を参考にしています。
しかし、御成敗式目は日本にしかいない「武士」に焦点を合わせています。
完全オリジナルなんです。
そういった意味で重要ですね。
また、戦国時代には様々な大名が分国法をつくっています。
それらは、御成敗式目の影響を色濃く受けています。
だいぶ長くなりましたが、鎌倉幕府成立後の
承久の乱⇒六波羅探題⇒御成敗式目
という流れは、絶対に押さえてくださいね。
では、また。