これだけは!歴史年号語呂合わせ 24選 第4回
こんにちは。講師亀崎です。
今回はコレです!
672年 壬申(じんしん)の乱
→ ロクな兄ちゃんじゃねえ!壬申の乱
はい、出ました。
「壬申の乱」「承久の乱」「応仁の乱」がゴッチャになって困ります!シリーズですね。
しっかり区別しましょう。
壬申の乱ですが、一言でいうと天智天皇の後継問題で起きた内乱です。
その内容の前に、少し天智天皇にてついて触れましょう。
626年に生まれた天智天皇は、若いころ「中大兄皇子」でした。
乙巳(いっし)の変(大化の改新)は、19歳そこそこのころです。
663年に白村江(はくすきのえ)の戦い(日本VS唐・新羅の連合軍)で大敗。
その後663年に天皇となりました。
なお、天智天皇は672年に崩御(ほうぎょ:亡くなること)しています。
天智天皇は生前、自分の次の天皇として弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を指名していました。
息子の大友皇子(おおとものおうじ)がいるのに、です。
とうのも、大友皇子は天智天皇の実の息子ではあったのですが、実母の身分が低すぎました。
だから、周りの皇族や貴族に気を遣って父も母も同一の大海人皇子を時期天皇としていたのです。
当時は、そのほうが筋が通っていたのですね。
そんなとき、聡明な大海人皇子は兄:天智天皇の本心を見透かしていました。
「兄ちゃん、ホントは大友皇子に次の天皇を継がせたがっとんな~」と。
天智天皇は独裁気味でイケイケだったため、大海人皇子は身の危険を感じました。
そこで、大海人皇子はいったん皇位継承問題から身を引き、出家しました。
やがて、天智天皇は崩御。
大友皇子が天皇になるかと思われました。
しかし、独裁気味の天智天皇に対する不満が息子の大友皇子に向けられ、朝廷が荒れます。
その機会を逃さず、ホントは天皇になることを狙っていた大海人皇子が挙兵します。
こうして壬申の乱が勃発。
結果、敗北した大友皇子は自害しました。
一方、勝利した大海人皇子は天武天皇となりました。
これが壬申の乱の概要です。
壬申の乱が重要なのは
・天皇とその一族へ権力が集中した
つまり、中央集権国家体制がほぼ固まったのです。
壬申の乱で荒れた朝廷を鎮めたため、天武天皇の権威が高まったことがきっかけなのです。
天武天皇は、出自を重視し天皇・皇族の優位性をはっきりと打ち出しました。
次は、法令によって中央集権国家を確立させます。
それは、次のお話。
では、また。