偉人の妄想インタビュー⑤~桓武天皇~ その1
こんにちは。
全て、講師亀崎の妄想です。ちょっとした読みもの的な感じで作ってみました。
広い心で、暇つぶし的に読んでいただければ幸いです。
今回から桓武天皇です。
貴族たちの権力争いにもご注目ください。
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インタビュアーを「I」、桓武天皇を「桓」とする。
I:今日はお時間いただいて、ありがとうございました。
桓:かめへんがな。何でも聴いてーや。
I:そもそもの話なんですが、皇位の家系が変わったじゃないですか。
第48代称徳天皇までは天武天皇系でした。
その次の第49代光仁天皇から天智天皇系になりましたよね。
そのあたりの皇位継承について、少しくわしくお聞きしたいのですが。
鍵はやはり恵美押勝(えみのおしかつ)こと藤原仲麻呂(なかまろ)ですか。
桓:せやな。まあ、権力争いがエゲツなかったなあ。
聖武天皇のころは橘諸兄(もろえ)がイケイケやったんや。
藤原四兄弟は、みーんな天然痘で死んでしもたからな。
そうなると、不安を感じる偉い人がおったんや。分かるか?
I:四兄弟の妹の光明皇后ですか。
桓:せや。
おまけに、(藤原四家の一つ)式家の藤原広嗣(ひろつぐ)が謀反起こしよったやろ。
藤原氏にしたら、逆境中の逆境や。
そこに、四兄弟の一人、武智麻呂(むちまろ)の子の仲麻呂が力付けてきよったんや。
(藤原四家の一つ)南家やな。
I:つまり、仲麻呂は光明皇后の後ろ盾もあった、と。
桓:それだけやないがな。
母がそうなら、娘もそうや。天皇になる前の孝謙天皇も仲麻呂を気に入っててん。
それにな、仲麻呂は一時期、式部省におったんや。
分かりやすく言うと朝廷の人事権を持っとったんやな。
ほしたら、あからさまに自分の都合のいいように人事異動しまくってな。
「仲麻呂派」を作っていったんや。
あとな、ここだけの話しやで。安積(あさか)親王って知ってる?
I:聖武天皇の、第2皇子で・・・母親は光明皇后ではなかったですよね。
桓:そうや。光明皇后母娘にしたら、邪魔やろ。
I:でも、阿倍内親王(後の孝謙天皇)がすでに立太子されていましたよね。
桓:そんなもん、あとからイチャモンつけよう思たら、ナンボでもつけれるがな。
もし藤原氏を中央から遠ざけよう思たら、かっこうのエサや。
せやからな、安積親王暗殺説が根強いねん。
「殺ったんは仲麻呂や」いうてな。けっこう噂にはなってたで。
真相はともかく、孝謙天皇が即位してからは、仲麻呂の時代や。
言うたら、いとこ同士やな。
I:橘諸兄との力関係が逆転したんですね。
桓:諸兄もな~。何や「朝廷の悪口言うた」とかチクられてな。
聖武・・・上皇か。上皇は許してんけどな。諸兄も疲れたんやろ。
「もう、やめさせてもらうわ」いうて。隠居しよったんや。
その息子の橘奈良麻呂(ならまろ)もな~。
諸兄が死んだ直後にクーデター起こそうとしたんや。
『橘奈良麻呂の乱』やあ。これが未然にチクられて、パクられて。
このとき、かなりの人数が処刑されたんや。
もちろん、仲麻呂にとって都合悪い人が多かったわな。
中には、仲麻呂の兄ちゃん(豊成)もおってんで。怖いわ~。
I:仲麻呂としては、政敵を一掃して天下を取れた、と。
桓:それで終われへんしな。
孝謙天皇の次を淳仁(じゅんにん)天皇にしたんは、仲麻呂やで。
I:なぜ仲麻呂は淳仁天皇を担いだんですか。
桓:ちょっと複雑やねんけどな。
仲麻呂の息子が、割と若いうちに死んでしもうてな、その奥さんが残ったんや。
その人を、天皇になる前の淳仁天皇に嫁がせてな。
おまけに、自分の屋敷に住まわしとったんや。
I:じゃあ淳仁天皇なら仲麻呂のいいように動いてくれる、と。
桓:その予定やったんやろな。
ちなみに、淳仁天皇は即位した後、仲麻呂に名前を与えたんや。
それで「藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)」になったんやな。
でも、ええことばかりも続かへんねん。
淳仁天皇になったからとて、孝謙上皇は政治の実権をにぎったままや。
そうなるとな、いくらいとこ同士いうても、仲麻呂と孝謙上皇の仲が怪しくなってくんねん。
I:ちょうどそのころ、光明皇太后が崩御されたのではないですか。
桓:そっからケチのつけはじめや。
光明皇太后が崩御されてからな、孝謙上皇も病気になんねん。
そんな孝謙上皇の病を治した坊さんがおるんやけど、知ってるか。
その「坊さん」とは?
次回、逆襲の押勝!!