これだけは!歴史年号語呂合わせ 24選 第12回

こんにちは。

講師亀崎です。

今回は、コレです。

1603年 江戸幕府成立

「ヒーロー・おっさん 徳川家康 

     江戸に幕府が始まりやす!」

 

出ました。

鳴くまで待ってた徳川家康が、ついに天下人です。

1603年に、徳川家康が武士の大将である「征夷大将軍」に任命されました。

これをもって、徳川幕府が成立!となります。

ただ、この時代は少しゴチャッとしてますので、基本的な流れを押さえましょう。

 

家康の前の天下人と言えば、豊臣秀吉ですね。

この秀吉が、1598年に亡くなります。

このとき、秀吉の息子&後継ぎの秀頼は、まだ6才です。

天下人が務まるはずがありません。

家臣たちの権力争いが始まります。

最終的に、しぶしぶ秀吉に従っていた徳川家康 VS ガチガチの秀吉の家臣・石田三成となります。

こうして1600年、岐阜県で関ケ原の戦いが起こります。

勝敗は1日で決まりました。徳川家康率いる東軍の勝利です。

こうなると、家康に強く言える人はもういません。

そして、徐々に豊臣家を弱らせていきます。

いきなり滅ぼしたんじゃ、ただの悪者になりますもんね。

 

豊臣家を討つ大義名分を探していた家康にチャンスが訪れます。

征夷大将軍任命から11年後の1614年。

あの有名な方広寺鐘銘事件です。

火災により焼失した方広寺を豊臣秀頼が再建させたのですが、そこの鐘に刻まれた文言に

家康がクレームを着けました。

「国家安康 君臣豊楽」というのは、家康の字をぶった切り、豊臣だけの世にするという意味だ!

と。

まあ、いいがかりですね。

家康は、豊臣が完全に徳川の家臣にならなければ許さないと主張。

それを豊臣側は突っぱねます。

それならと、家康は秀頼とその母の淀殿(秀吉の奥さん)を江戸に住まわせようとしました。

この交渉の仲立ちをしていた片桐且元という武将が、豊臣側のある家臣から裏切りものとして

襲撃されます。

これを家康は豊臣側の宣戦布告ととらえ、大坂・冬の陣へと発展します。

この戦で勝ちきれなかった家康はいったん停戦をします。

しかし、翌1615年ふたたび戦が始まります。

大坂・夏の陣です。

この戦で豊臣家は滅んでしまい、完全に徳川の世になりました。

 

上に書いたようなそれぞれの事件の順番はしっかり押さえましょうね。

豊臣秀吉が死去する→関ケ原の戦いが起きる→徳川家康が征夷大将軍になる→大坂・冬&夏の陣

 

では、また。