うすき竹宵 真名長者伝説
成績アップと、大分の高校入試、大学入試、豊府中入試に強い塾、ライズの都です。
ライズ臼杵校のある臼杵市では、今年も秋の夜のお祭「竹宵(たけよい)」が開催されます。
お祭の間は、竹ぼんぼりや竹のオブジェの温かい灯りが、夜の街をやさしく照らしてくれます。
毎年11月の第一土曜日と日曜日に催される竹宵ですが、
そもそもなぜこのお祭で竹ぼんぼりを灯すのでしょうか。
そこには臼杵の石仏や天皇家ともつながる親子三代の物語がありました。
大和朝廷の時代、豊後の国の深田(臼杵)に炭焼き小五郎(すみやきこごろう)という男がおりました。
ある日、神のお告げに従って都から玉津姫(たまつひめ)という姫が小五郎のもとにやって来ました。
二人は結婚し、数々の奇跡によって富を得て、やがて小五郎は真名長者(まなのちょうじゃ)と呼ばれるようになりました。
夫婦の間には般若姫(はんにゃひめ)という一人娘がおり、その美しさと気品の高さは世間の評判となっていました。
般若姫の噂を聞いた朝廷は姫を妃として都へ差し出すようにと使者を遣わしますが、
長者(小五郎)は一人娘という理由で要請を拒み、代わりに姫の姿を描き写した「玉絵箱(たまえばこ)」を朝廷に献上しました。
ところがその後、献上された玉絵箱を見て恋に落ちた若者がおりました。
それは、後の用明天皇、橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)でした。
皇子は般若姫に逢うために草深い臼杵に下り、牛飼いに身をやつして長者のもとに身を寄せました。
やがて皇子は般若姫と結ばれ、しばらく幸せな時を過ごしますが、二人の幸せは長くは続きませんでした。
父親(天皇)が病にたおれ、皇子は都に帰らねばならなくなったのでした。
しかし姫は臼杵の地に残りました。身ごもっていたからです。
皇子は「男の子が産まれたら都へ共に連れて来るように、女の子なら長者のもとに残して来るように。」と言い残して、都へ帰って行きました。
産まれたのは、かわいい女の子でした。玉絵姫(たまえひめ)と名付けられました。
やがて般若姫は、用明天皇となった皇子のお召しに従い、産まれたばかりの小さな玉絵姫を臼杵に残し、大勢の家臣に守られて臼杵の港から都へと船出しました。
しかし、姫は心から慕う皇子のもとにたどり着くことはできませんでした。
航海の途中にひどい嵐に遭い、船もろとも帰らぬ人となったのです。十九歳の若さでした。
娘の死を悲しんだ長者は、深田の岩崖に仏像を彫らせました。(これが国宝臼杵石仏)
月日が流れました。
年老いた長者夫婦は、今は亡き愛娘の般若姫のことが日に日に思い出されます。
せめて、娘の面影を写した玉絵箱、帝に差し上げた玉絵箱を見たい…。その思いは募るばかりです。
母を亡くした玉絵姫。母の姿を知らぬ玉絵姫も、玉絵箱を見たいと心から願いました。
玉絵箱は長者夫婦にとっては娘、玉絵姫にとっては母そのものだったからです。
長者夫婦は般若姫の供養のために玉絵箱の里帰りを朝廷に願い出ました。
朝廷も長者たちを憐れんでこれを許し、毎年秋二晩だけ、玉絵箱を臼杵に返してくださることになりました。
都から玉絵箱をのせた船が着くころ、秋の陽はとっぷり暮れ、村人たちは暗い夜道を竹ぼんぼりで明るく灯し、玉絵箱をお迎えしたのでした。
以上が竹宵にまつわる物語「真名長者伝説(まなのちょうじゃでんせつ)」のあらましです。
竹ぼんぼりは玉絵箱、つまり般若姫の御霊をお迎えする「迎え火」だったわけです。
竹宵の一日目(土曜日)には、般若姫の御霊をお迎えする儀式が執り行われます。
そこで行われる「般若姫行列」は、竹宵の中心的行事です。
般若姫(※去年の写真です)
前列右から、朝廷の勅使、小五郎、般若姫、玉絵姫、玉津姫
小五郎が手に抱いているのが玉絵箱です。(※これも去年の写真)
小五郎や般若姫の物語はあくまでも伝説であり、史実であるかどうかは定かではありません。
しかしながら、竹宵が臼杵の石仏とも関わりがあり、また用明天皇は、十七条の憲法や冠位十二階を定めたあの聖徳太子の父親にあたる人物ですから、玉絵姫と聖徳太子は腹ちがいの姉弟ということになると考えると、歴史のロマンを感じざるを得ません。
明日は竹宵の二日目。
両親や愛娘と一夜を過ごした般若姫の御霊をお送りします。
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